GIFUMAN2の部屋にようこそ
2011-02-02T23:18:05+09:00
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つれづれなるままに・・・
Excite Blog
諦めの境地の大切さ
http://gifuman2.exblog.jp/12805705/
2011-02-02T23:10:00+09:00
2011-02-02T23:18:05+09:00
2011-02-02T23:10:24+09:00
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客観的に見るならば、人は誕生することによって存在し、死をもって存在しなくなる。これは、他者の目から見て、人々が生まれ、死んでいく世の中において繰り返される現象に基づいた考えである。
けれども、自分自身の存在として捉えた場合、どうか。一回きり、二度と繰り返すことのできない人生において、自分の存在を考えると、どうなるのか。
それは、自分は知らないあいだに存在していて、そして知らない間に存在していない、ということなのではないだろうか。
物心つくということは、自分の存在を自覚することだ。それは、知らない間になされるものだ。少なくとも自分はそうだ。知らない間に、物心がついていたのだ。だから、知らない間に、存在していたのだ。
そして、存在から非存在に至ることも、あたかも覚醒から眠りに移行するときのように、知らない間に起こるのだ。結局、自分が存在していないことのほうが圧倒的に長いこの宇宙なのである。
そんな事実のなか、その一瞬のあいだ、自分は存在しているのだ。存在するようになれば慾がでる。もっと生きていたい、死にたくない、というのは、生きていれば当然かもしれないが、慾である。けれども、それは不可能なのである。
だから、「諦め」の境地が重要なのである。諦めるしかないのだ。自分は、知らない間に存在していた。そして、知らない間に存在していないようになる。ずっと昔からそうだったように。そしてその後もずっとそうであるように。それで、いいじゃないか。それが諦めというものなのだ。
自分の存在自体がそうだ。だから、自分の存在以外にも、いろんなことについて、諦めることが大切だ。未練もあるかもしれない。悔しいかもしれない。辛いかもしれない。現実を受け受け入れららないかもしれない。でも、現実をしっかりと受け入れ、諦めるしかない。諦めるのだ。そうして、毎日を、精一杯くらしていくしかないのだ。
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愛
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2010-07-13T03:02:13+09:00
2010-07-13T03:02:07+09:00
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愛とは、ときにはつらく、かなしく、せつないものなのである。]]>
深夜の映画
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2010-07-04T02:09:00+09:00
2010-07-04T02:42:08+09:00
2010-07-04T02:09:33+09:00
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おそらく、そんなにメジャーな映画でなく、かつゴールデンタイムにテレビ放映するようなものでもないという、マイナーな映画である。きまって、テンポがスローで、時間の流れが非常にゆっくりに感じられる。どことなくものさびしく、テーマ設定もせつなかったり、沈黙や情景描写が多かったりして、静まり返った深夜の時間帯と異様にマッチしていたりする。
そんな映画があったのかと思うくらいマイナーだからこそ、深夜で放映するくらいしか活用のしようがない、空虚なものだからこそ、なんとなく見入ってしまうのかもしれない。
まったく偶然だったのにもかかわらず、だから最初のほうを見逃していたのにもかかわらず、なんとなく不健全な気持ちとなんとなく満足な気持ちが入り混じった感じで、とりあえず全部観てよかったな、と思ったりもする。偶然出会った映画だし、タイトルでさえ忘れてしまうかもしれないが、それでも出会ってよかったと思える瞬間である。
ふつうの感覚からすると、夜更かしして、なんとなく映画をみて、それで最後まで見入ってしまう。どうせこれから寝て明日は目覚めが悪い、というようなことは、時間を浪費していてもったいないということなのだろうが。それは半分認めつつも、こういうのも人生のいいところだ、なんて思ってみたりもするし、それも単なる言い訳でもなく、半分は本心だったりする。
ほんと、たまにしかないが、一度ではなく何度か遭遇する、人生でも不思議なひとときである。
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人間としての生き様
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2010-06-12T23:56:17+09:00
2010-06-12T23:56:16+09:00
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たしかに、死ぬときに後悔しない生き方として、重要だと思うことはいろいろ書いてあるが、どうも、いまの社会の通年となっている善悪に基づいたものが多いと思う。しかし、善悪とは時代時代によって変わってくるものであるし、絶対というものはない。
例えば、現代のような高度な文明社会を作ってきたのは人間であり、その文明社会によってわれわれは健康面や幸福度などにおいて大いに恩恵を受けているといえるだろう。
だから、この高度な文明社会に貢献していくことは、人間として生まれた以上、責務であり、いわゆる世のため人のために貢献できた人は立派な人で、そうでない人はダメな人だという考えは、たしかにそのとおりなのかもしれないが、社会に貢献できない人はほんとうにダメな人なのだろうか。死ぬ間際に大いに後悔するような生き様をする人なのだろうか。
われわれは、人間であると同時に、というか人間である以前に、動物である。だったら、動物としてもっと自然な生き方、死に方をしてもよいとはいえないのだろうか。なんとなく、人間社会に貢献できるのが人間の使命、というような考え方は、ほかの動物に対してある意味高慢な態度であるとはいえないか。
動物は、ほかの動物の役に立てたかどうかでなんて悩まないし、知らないあいだに野垂れ死にしていくことが多い。死んだあとで、他の仲間から大いに偲ばれるなんてこともない。人間だって、そんな動物の生き方、死に方であってもいいのではないだろうか。
高度な現代社会というのは、歴史的にいってもほんの一瞬のことにすぎない。その社会で通用する善悪判断にしても、ほんの一瞬のことだ。そのような善悪、道徳に縛られるのもひとつの生き方なのかもしれないが、もっと長い目で見た場合に生き物としてのわれわれを支配している自然法則に無理にしたがわず、ある意味あきらめの境地ももちながら、動物として生き、動物として死んでいく、というのもありなのではないかと思う。人の生き方に対して、立派な生き方とか、ダメな生き方なんて烙印を押してもあまい意味がないのではないだろうか。
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こころの誕生
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2010-02-19T23:27:42+09:00
2010-02-19T23:27:39+09:00
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何年前かはここでは重要でない。重要なのは、こころが生まれたというのは、「私」「自分」が生まれたことでもあるということだ。
それは、外側から自分を見ることができるようになったのだ。
もちろん、物理的に自分が自分の外に出て自分を見ることなどできない。しかし、こころができたおかげで、こころのなかでそれができるようになった。
たとえば、恥ずかしいのはなぜか。それは、自分が客観的にどんな状態にあるのかを、外側から見て、そこで自分が嘲笑されていることを自覚する。だから恥ずかしいのだ。
自分を客観視する。外側から見られている自分を認識する。これは、人類にとっては画期的であったと同時に、苦悩のはじまりであったはずだ。
それはなぜか。
それは、客観的に自分を見れるということは、自分が死ぬという事実も、自分の外側にある客観的な世界から、リアリティをもったかたちで想像できるからである。
自分を見ている客観的なリアリティのある世界では、自分が死んだ後も、その世界は当然のことながら継続する。たとえば、死んだ自分を弔う人がいる。自分を火葬する人がいる。など。
しかし、そのようなリアリティとは何か。それも自分ではないのか。つまり、自分で自分を見ているのだから、客観的な世界から自分を見ているのも自分なのである。
しかし、その自分が死んでしまったのならば、客観的な世界から見ている自分も存在しないはず。そうすると、この客観的を生み出している主体が存在しないのだから、客観的世界も存在しなくなってしまう。つまり論理に矛盾を起こしてしまうのだ。
いや、存在、存在しないなどという論理的な問題ではない。外側から自分を見ていた自分がすでに存在しないのだから、客観的世界があるなしを気にかける主体もいないしその理由もない。つまり、すべてが意味のないことなのだ。
客観的な世界はリアリティをもって存在することをほとんど真実のように確信できるのに、そうやっていま確信している自分が存在していないのならば、客観的な世界など無意味である。無意味であるものが存在していたとしても、自分にとってなんの意味もない。
こころが生まれたということは、必然的に、この矛盾が永遠に解決できなくなってしまったということなのだ。解決できないまま、この世を去るということになるのだ。だからこれは苦悩というほかはないのである。
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宇宙のはてと人間の死
http://gifuman2.exblog.jp/10760731/
2010-02-11T23:54:00+09:00
2010-02-11T23:55:41+09:00
2010-02-11T23:54:15+09:00
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例えば、宇宙の果てはあるのかと考えてみる。宇宙を外から見る立場の者がいたならば、宇宙のはては「ある」だろう。
しかし、「宇宙の一部」である私たちから見たら、宇宙の果てはない。宇宙の果てに、永遠に近づくことはできても、宇宙を越えることはできない。だから果てはない。
同じように、死ぬということについて考えてみよう。自分以外の人からみたら、自分の死は確実に存在するだろう。
けれども、自分自身から見たら、死に永遠に近づくことはあっても、死を経験することはできない。死を乗り越えて、死後の時間帯にいくことはできないのだから。だから、自分には死は存在しない。
つまり、宇宙の果てにしても、自分の死にしても、それに近づくことはできても、それを乗り越えられないのだ。果てもしくは死に永遠に近づいていくばかりで、いつまでたっても終わりがない。すなわち、宇宙には果てがなく、宇宙は永遠に続く。同様に、自分には死は存在せず、永遠に生き続けるということだ。
これは、うさぎはカメに永遠に追いつけないといったゼノンのパラドクスと似た部分もあるかもしれない。
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子供の頃
http://gifuman2.exblog.jp/10674733/
2010-01-18T01:46:05+09:00
2010-01-18T01:46:02+09:00
2010-01-18T01:46:02+09:00
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子供の頃って、まるで昨日のことにように思うというけど、それは本当だ。
例えば、今晩寝て、明日起きたら子供のころに戻っているとしよう。仮にそうなったとしても、まったく違和感がない。つまり、そのまま子供として一日を過ごしてもなんら不自然でない。
それくらい、子供のころというのは、昨日のことにように思えるのだ。
だから、もっと長く生きて、年老いても、死ぬ間際になっても、感覚は同じだと思うのだ。
老人が死期を向かえ、意識が朦朧としたときに声や振る舞いが子供になってしまったかのように豹変するという話を聞いたことがある。
それも、まったくのオカルト話ではなくて、十分ありうる話だと思うのである。それだけ、子供の頃のことが昨日のように感じるということなのである。だから、一瞬、その子供の頃に完全に戻ってしまってもおかしくはないのである。
理性的な思考では理解できない、不思議な、ほんとうに不思議な感覚である。
なつかしい、というのもそういう感覚だ。一瞬、自分の感覚がそのときに戻ってしまうのだ。
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なぜボクはこんなに君にひかれてしまったのか
http://gifuman2.exblog.jp/9585824/
2009-04-12T01:56:00+09:00
2009-04-12T01:58:11+09:00
2009-04-12T01:57:33+09:00
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非常にガードが固くてこころの中に入れない反面、ある種の無防備な言動をちらつかせ、それが私を君へとひきよせる。
君のことは全然わからない。わからないためにどうしても離れられない。自分自身納得がいかない。あきらめがつかない。心の中がみえない。
きみの気持ちが完全にあの人に向いているのなら僕にはどうすることもできない。でも、そうでなければ、僕にもきみを振り向かせるだけのチャンスは残されていると思う。
何年かかってもいい。永遠に振り向いてくれなくても、きみがだれかのものになっていない限り僕は待つつもりでいる。
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すべて捨てて去る
http://gifuman2.exblog.jp/6843366/
2007-12-30T01:35:00+09:00
2007-12-30T01:33:07+09:00
2007-12-30T01:30:33+09:00
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しかし、どれも死んだあとの世界にもっていくことはできない。だから、死ぬ前にはすべて捨て去り、自分以外何もない、きれいな状態で死ぬのがよいだろう。
もともと、自分のものでもなんでもないのである。しかし、あたかも自分のもののように思い込んで、いろんなものを守ろうとする。そして、そういったものがどんどん増えていく。財産だけではない、地位や名声、実績なんかもそうだ。
気がつくと、所有しているもの、身に着けているもの、誰かに取られないように、減ったりしないように用心して守らなければならないもの、日々管理し、メンテナンスしなければならないもので一杯になって、いつまでたっても捨てることができない。これでは、この世で使ったもの、実につけたものはきれいさっぱり、全て捨てて去っていくということが実践できない。
なかなか実践できることではないが、重要なのは、きりのいいところで溜め込んだものをきれいに捨ててしまうことだ。すべて捨て去ることができないのであれば、少なくとも、どんどんたまっていってしまうのを防ぐために、すこしずつ捨てていくことである。
しかし、わたしたちは、一度身に着けたものを捨てるのは恐いのである。捨てることほど勇気がいることはないのかもしれない。
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燃え尽きて去る
http://gifuman2.exblog.jp/6530996/
2007-11-08T22:13:00+09:00
2007-11-28T00:51:02+09:00
2007-11-08T22:12:53+09:00
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どんなにがんばっても、100%ということはない。そういう意味では、人間の可能性というのは、無限に広がっているということもいえるのである。けれども、100%まで限りなく近く、使いはたし、燃え尽きて、人生を終えることは不可能ではないだろう。環境と心がけしだいである。心がけがあれば環境だって見方してくれる。
この、種の時点で詰め込まれた人間としてのポテンシャル、使命は、直近でいえば親からバトンタッチしてもの、もっと長い目で見れば、太古の昔から、自分の代まで決して途切れることなく、受け継がれてきたものである。人間よりずっと昔の、ナメクジのような生物のときからである。決して途切れることがなかったのである。この命のつながりがどこかで途切れていたならば私という人間は絶対に存在しないはずだから。
この、太古から自分に受け継がれてきたポテンシャル、生まれたときから自分が持っている、まだ未開の部分が多いポテンシャルを、100%開花させる。途中で子孫にバトンタッチするにせよしないにせよ、自分がもらった燃料をすべて使い果たし、燃え尽きてこの世を去る。これが、人間として生まれてきた一人ひとりが果たすよう努力しつづけなければいけない、唯一の使命なのだろう。
この世で自分が授かったポテンシャルを完全燃焼させ、燃え尽きて死ぬことができたらこれほど幸せなことはない。
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この世に生まれた使命
http://gifuman2.exblog.jp/6526357/
2007-11-08T01:05:17+09:00
2007-11-08T01:05:17+09:00
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ただし、これは、物理的世界の話だけであるので、いわゆる種のレベルから、人体の設計図だけでなく、わたしたちひとりひとりの使命も刻み込まれているのではないだろうか。
つまり、人間というハードウェアにかたちを変えてこの世に生み出されてくる私たちひとりひとりには、そうなる理由があるから生まれてきたのであり、その理由というのが、私たちひとりひとりが死ぬまでにしなければならない使命というか役割なのである。
それは、種のレベルで刻み込まれていることであって、その使命を全うし、つまり、現世で、種のレベルでもっていたポテンシャルをすべて出し尽くして、燃え尽くすということが、もっとも幸せな人生なのだろう。人体も含めて、親からバトンタッチした瞬間の種のレベルで定められているポテンシャルを、それはひとりひとり異なるであろうが、最大限に発現し尽くすように生きることが求められているのだ。それで、種のレベルで求められていた役割や使命を出し尽くしたところで、自分が人間というハードウェアに形を変えて生まれてきた命を全うし、何も思い残すことなく、またもとの場所に戻っていくのである。
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宇宙
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2007-11-07T12:50:53+09:00
2007-11-07T12:50:51+09:00
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gifuman2
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そんな奇跡的な地球という星で、しかも、いま、自分が人間として姿を現して、生きているということがなんと不思議なことかと思えてくる。そして、人間としてこの世から去っていくわけであるが、真実は、自分が人間として生まれるまえから、ずっと、自分はこの宇宙の一部であり、死んだあともずっと、この宇宙の一部であり続けることなのだ。永遠にこの宇宙の一部であるということは、そこから逃れられない真実なのである。宇宙とはなんなのか、ほとんど知ることのないまま人間としての生は終えるのだろうけれども。
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人間というハードウェア
http://gifuman2.exblog.jp/6518066/
2007-11-06T20:22:15+09:00
2007-11-06T20:22:15+09:00
2007-11-06T20:22:15+09:00
gifuman2
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脳みそにせよ、筋肉にせよ、内蔵にせよ、骨格にせよ、ありとあらゆる部分は、おそらく百年や千年といった単位の昔とはほとんど代わりがないだろう。流石に、1万年前の人間と比べると多少、今のほうが、性能がよくなっていると言えるかもしれない。
この人間というハードウェアのすごいところは、自分自身で環境に適合するべく進化するメカニズムを内包しているところにある。それは、生死を繰り返しながら、遺伝子をブレンディングすることによって、微妙に異なる次世代を生み出し、その中で環境に適合できる優位性をもった個体が生き残っていくという仕組みである。だから、少しずつではあるが、常に変化し、環境の変化についていこうとしている。
そんな素晴らしいハードウェアを生まれながらにして与えられた私たちはなんて幸せなのだろう。そして、多くの人は、このハードウェアを次世代にバトンタッチしていくのである。私たちは、まさに人間というハードウェアのリレー選手の役割を果たしているのだ。
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余計な心配
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2007-06-03T02:21:00+09:00
2007-06-03T02:26:42+09:00
2007-06-03T02:21:26+09:00
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だから、いろんな偶然が重なってこの世に生まれてきたことはラッキーなのであるが、結局は、いずれは、もとの状態に戻る。つまり、宇宙の視点からみて、自分が存在していない状態に戻るのである。
それは頭の中ではよくわかるのだけれども、やっぱり、その、「もともと存在していなかった状態」「宇宙時間で一瞬といっても、ほとんど存在していないことと一緒なので、その、あたりまえの状態」に戻ることが恐いのである。
多くの人は、そんなややこしいことは考えず、毎日毎日、自分にとって時間というものは永遠に続くものであると感じているかもしれない。そのような無限に連続した時間間隔のなかで、ふつうに寝て起きて活動して、また寝てというのを繰り返し、だんだん年をとっていき、そして、知らないうちに自分はこの世からいなくなっている。余計なことを考えずに。だから、こうして、自分にとってこの世界とはとか、自分の存在がどうのこうのとか、「余計なことを考えている」だけ無駄なことなのかもしれない。知らぬが仏というか。
この世からいなくなってもとの状態に戻っていくのはみんな同じなのだから。
しかし、そうはいっても、「わたし」が、これまでいろんなことを知り、経験し、いろんなことをあれこれと考え、書き記したりしてきたことはいったい何の意味があるのだろうか。この世からいなくなったあとで、「思い起こせば・・・」なんてなつかしむことさえできない。自分がこの世にいるあいだに行なったいろんなことを総括したり、後になって評価したりすることさえできない。誰か別の人が評価してくれるかもしれないけど、そうだとして、その評価はわたしにとって何の意味があろうか。存在しないわたしにとって。
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世界
http://gifuman2.exblog.jp/5531870/
2007-06-02T01:41:41+09:00
2007-06-02T01:41:41+09:00
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gifuman2
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しかし、客観的視点とはあくまで虚構であって、自分という肉体を離れて、つまり幽体離脱して世界を見ることなど絶対にできないのだ。
だから、世界を見ている自分というのは、自分の肉体が生きているがゆえに、自分の内側から世界を見ることができるのである。常に自分の中から見ているので、自分の外には行けないのである。
ということはつまり、自分の肉体の存在なくして、もっといえば、自分が生きていることなくして、世界を認識することなど不可能なのである。世界の存在は、自分の存在なしには語ることができないのである。
考えてもみるがよい。自分が存在していないのに、どうして世界が認識できようか。自分が存在していなければ、世界を眺める「内側」が存在しない。世界は客観的に存在するのは自明なように思えるというのも、世界を見る主体が、自分の外側に出ることができない以上、それを誰も確かめることができない。
確かに、「わたし」がこれまでに獲得した知識や経験から、宇宙時間レベルで見れば、自分が存在していない時間がほとんどであることは自明のように思える。しかし、自分が存在していない状態の話はわたしにとって何の意味があるのか。わたしがいなくなったあとの世界について、いまは想像することはできても、いなくなった後ではわたしにとって何の意味もない。だって、わたしは存在していないのだから。見ることも、考えることも、そもそも世界という概念すら、ない。
客観的レンズからいうならば、これは、「わたし」のみならず、すべての人にあてはまるということだ。150年以上前に生まれた人々は全員、いないし、いまいる人々も150年後にはいない。
人類が存在しなかったころの宇宙とか、人類がいなくなってしまったあとの宇宙も、理屈ではありうるし、その理屈はかなり確からしいと感じられる。けれども、それは理屈にすぎない。誰もほんとうのことを知ることはできない。
確実にいえることは、「わたし」がいなくなるときが必ず来るということだ。必ず。いつかわわからないが、確実に一歩一歩、近づいている。誰にとっても同じことだ。じゃあ、いよいよ、となったときに、いったい自分は、どう感じるのだろうか。いや、なにかを感じるとして、それが次の瞬間にいなくなるわたしにとって、いったい何の意味があるのだろうか。
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